風色の本だな

風色の本だな

新美南吉『ごんぎつね』

   
   ◆新美南吉『ごんぎつね』◆ 


いよいよ今回の児童文学講座の最終回の報告をさせていただきます。

幼い頃の南吉の生い立ちは大変みじめなものでした。4歳で母を亡くし、6歳のとき継母を迎え、8歳で養子に出され、半ばたらい回しのような状況であり、淋しく、実に孤独な生い立ちでした。

早い時期から孤独感に苛まれ、大人の醜い争いを見てきた南吉が幼児期に受けた心の傷は深く、人間不信というトラウマとなって残ります。

南吉のすべての作品の根底にあるのは、“孤独との戦い”と“相互理解の追求”でした。人間不信に陥りながらも、お互いを理解し合うことの大切さを追求しました。

そんな南吉を象徴している短い童話『でんでんむしのかなしみ』があります。

美智子皇后が、1998年9月21日、インドのニューデリーで開催された国際児童図書評議会(IBBY)世界大会で、ビデオを通して基調講演を行ないました。

皇后が講演されたのは初めてのことでしたが、「子どもの本を通しての平和」をテーマに、子ども時代の読書の思い出を中心にお話しされ、その語りかけは多くの人々が深い感銘を受けました。この中で、新美南吉の名をあげられ、「でんでんむしのかなしみ」という作品について、お話されました。

砂田氏がその部分を読み上げました。

「まだ小さな子どもであった時に、一匹のでんでんむしの話を聞かせてもらったことがありました。

不確かな記憶ですので、今、恐らくはそのお話の元はこれではないかと思われる、新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」にそってお話いたします。

そのでんでんむしは、ある日突然、自分の背中の殻に悲しみが一杯つまっていることに気づき、友だちを訪ね、もう生きていけないのではないか、と自分の背負っている不幸を話します。

友だちのでんでんむしは、それはあなただけではない、私の背中の殻にも、悲しみは一杯つまっている、と答えます。

小さなでんでんむしは、別の友だち、又別の友だちと訪ねていき、同じことを話すのですが、どの友だちからも返ってくる答えは同じでした。

そしてでんでんむしはやっと、悲しみは誰でももっているのだ、ということに気づきます。自分だけではないのだ。私は私の悲しみをこらえていかなければならない。このお話は、このでんでんむしが、もうなげくのをやめたところで終わっています。

あの頃、私は幾つくらいだったのでしょう。母や、母の父である祖父、叔父や叔母たちがお話をしてくれたのは、私が2年生くらいまででしたから、4歳~7歳くらいまでの間であったと思います。

その頃、私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。

だからでしょう。最後になげくのをやめた、と知った時、簡単にああよかった、と思いました。それだけのことで、とくにこのことにつき、じっと思いをめぐらせたということもなかったのです。

しかし、このお話は、その後何度となく、思いがけない時に私の記憶に甦ってきました。殻一杯になる程の悲しみということと、ある日突然そのことに気づき、もう生きていけないと思っていたでんでんむしの不安とが、私の記憶に刻み込まれていたのでしょう。

少し大きくなると、はじめて聞いた時のように、「ああよかった」だけでは済まされなくなりました。生きていくということは、楽なことではないのだという、何とはないない不安を感じることもありました。

それでも、私は、この話が決して嫌いではありません。」

不思議ですよね。初めて聞かされたときには、ああよかったで、たとえじっと思いを巡らせることがなくても、幼い頃のその記憶はしっかりと心の奥に残っていて、思いがけない時に甦ってくる・・・。子ども時代の読書体験は、心の奥深くに刻み込まれ、その成長と、実体験と共に、再び甦ってくるのですから・・・。
  
皇后自身が子ども時代を振り返り、少女期に読まれた本、そして母になって初めて出会った本から得た、美しさ、不安、悲しみや喜び。それらが生きていく上の根っこや翼を与え、痛みを伴う愛を知ったと、心の旅が語られています。

この講演録が『橋をかける』という一冊の本として出版されているのですが、ニューデリーでの講演で時間の都合上削られた部分をすべて元に戻し、細かい注をつけています。皇后がこれまでに出会った子どもの本への思いが、美しい言葉で率直につづられた講演録です。

「読書は私に、悲しみや喜びにつき、思い巡らす機会を与えてくれました。本の中にはさまざまな悲しみが描かれており、私が、自分以外の人がどれほどに深くものを感じ、どれだけ多く傷ついているかを気づかされたのは、本を読むことによってでした。」

「本の中で、過去現在の作家の創作の源となった喜びに触れることは、読むものに喜びを与え、失意のときに生きようとする希望を取り戻させ、再び飛翔する翼をととのえさせます。悲しみの多いこの世を子どもたちが生き続けるためには、悲しみに耐える心が養われると共に、喜びを敏感に感じ取る心、又、喜びに向かって伸びようとする心が養われることが大切だと思います。」

「読書は人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。」

砂田氏は、この講演録が、読書体験記としては、非常によくまとまっていると高く評価し、ある雑誌にその記事を載せたところ、「よくやった!」という声と、「いよいよ砂田も皇室制を認めてしまったか」というような批判があったそうです。

「私は、皇室制には、はっきり反対ですよ!しかし、この皇后の講演録そのものと、皇室制とは、分けて考えています。優れているものは優れていると評価してしてよいと思いますし、撤回する気はまったくありません」とおっしゃいました。

「悲しみ」は南吉が生涯追求したテーマでした。

南吉は幼い頃から作文を書くのがすきで、15歳の頃から童話を書き始めました。

「ごんぎつね」は南吉が18歳のときに書いたものです。

南吉も、雑誌「赤い鳥」の鈴木見栄吉のところに、原稿を持ち込んでいます。

依頼原稿ではなく、南吉自身が投稿したものに、見栄吉はかなり手を加え、原文の3分の2ぐらいの長さに削り、簡潔に書きなおして「赤い鳥に」掲載しました。

一度読んだ者には忘れられない、ラストシーンの部分は、ほとんど原文のままなのですが、一部分だけ見栄吉の手により書きかえられていました。

「おや。」と兵十はびっくりしてごんに目を落としました。
「ごん、おまえだったのか。いつも栗をくれたのは。」ごんはぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
兵十は、火縄銃をばたりと、とり落としました。
青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。

これがラストシーンなのですが、南吉が書いた原文は、

「おや。」と兵十はびっくりしてごんに目を落としました。
「ごん、おまえだったのか。いつも栗をくれたのは。」ごんはぐったりと目をつぶったまま、うれしくなりました。
兵十は、火縄銃をばたりと、とり落としました。
青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。

「ごんはぐったり目をつぶったまま、うなずきました」ではなく、「ごんはぐったり目をつぶったまま、うれしくなりました。」だったのです。

南吉は最後にごんが報われ、嬉しくなったことを読者に伝えたかったのでしょうね。南吉の願いが伝わってくるような気がするのですが、どう思われますか?

この作品もまさに、“孤独との戦い”と“相互理解の追求”がテーマになって
います。

また、ラストシーンの読み方で、この作品の捉え方が違ってきます。

●ごんは死んでしまったけれども、最後は相互理解が遂げられた・・・とする肯定的な読み取り方。

●人間は、所詮孤独であり、報われないものである・・というニヒリズムに通じる読み取り方。

砂田氏は、自分はどちらかというと後者の読み取り方をしているということを示されました。

「ごんぎつね」は小学4年生の国語の教科書に載っているため、ほとんどの日本の子どもたちは、この「ごんぎつね」を読んでいます。

しかし、ラストシーンがあまりにも残酷だということで、教科書によってはごんが気絶して、息を吹き返したことになっていたり、ごんが怪我をしただけで済んだことにしてあったものもあったそうです。

う~ん!これはちょっと首をかしげてしまいます。これではまったくちがうお話になってしまいますものね。

恒例の学生レポートです。

〇「ごんぎつね」が4年生にはむずかしいという意見もあるようだが、自分は4年生は的確だと思う。ごんには、いたずらっこのイメージが強い。高学年になると、ごんが弟的なイメージになってしまうのではないか?4年生だと、ちょうど自分に重ね合わせて見ることができるのではないか?

〇子どもの頃読んだ時には、ごんを銃で撃ってしまった兵十を恨んでしまった。ところが今回この作品を読みなおして、人間の偏見の恐ろしさを読み取ることができた。兵十には、いつもいたずらばかりしていたごんに対する偏見があったのだ。

〇世の中には誤解というものがある。それは、時として死にも至らしめてしまうことがあるのだと思った。最後には兵十はごんの善意を知り、そしてごんは死んでいったのである。そのことで、ごんの心は浄化し、報われたのだ。

〇なぜ、ごんは人間の言葉が話せなかったのか?「てぶくろを買いに」の子ぎつねは、人間の言葉を話せたから、人間と相互理解できたのだ。ごんの最大の悲劇は、きつねであるために、言葉を話せず、意思を伝えることができなかったことだ。もしもごんが、兵十に「ごめんなさい!」とあやまることができたり、孤独な兵十を励ますことができたら違っていただろう。

新美南吉は、たったの29歳8ヶ月でこの世を去りました。

彼の短い人生の中で残した作品は、「ごんぎつね」や「てぶくろを買いに」に代表される童話、「久助くんの話」に代表される少年心理小説、「牛をつないだ椿の木」のような民話的要素の強いものに分類することができます。

南吉は、「久助君」という少年を主人公にいくつかの童話を書いています。

この久助君は、南吉の分身と見られ、自我の形成や少年の心理を描いています。兵太郎君も、南吉の小学校の頃、言葉づかい、表情、くせ等でよく似た人物がいたと伝えられています。南吉少年期を素材に、周囲の人物をモデルに、一群の物語が作られました。

また、「牛をつないだ椿の木」は彼の最後の作品となりました。

15歳ぐらいから、童話を書き始め、ずーっと長い間、孤独と戦い、人間不信をテーマにしてきた作家が、本当に最後の作品で、人間は相互理解ができるのだということにたどり着き、人間のすばらしさを表現することができました。

昭和17年の作品とされ、南吉が、死を覚悟して、驚異的に創作を続けるなかで書かれた作品でした。

この作品は、南吉が亡くなって半年後に、友人である巽聖歌によって刊行されました。

作品の中に登場する、海蔵さんの「わしはもう、思ひ残すことはないがや。こんな小さな仕事だが、人のためになることを残すことができたからのォ」という言葉は、まるで南吉の生涯を振り返って、最後に残した遺言のような言葉でした。

砂田氏はしみじみ言いました。

「今の子どもたちは、自由であり、幸せの中に生きています。それはとてもすばらしいことです。ただし逆境が人間を育てることもある。醜い部分を見ないで育つのは幸せなことですが、南吉のような作品は生まれてこなかったでしょう。」

逆境の中でこそ生まれる芸術や文化があるとは、とても皮肉なことですね。




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